【死期を知る、死を考える】人はいつ死ぬのか?

【死期を知る、死を考える】人はいつ死ぬのか?

「生きていてくれるだけでいい」という言葉があります。ドラマの中やマンガの中でときどき登場するセリフです。主人公が命からがら生き延びたときなど感動的なシーンに使われます。さて、あなたはこの「生きていてくれるだけ」というのはどういう状態だと考えますか?

この言葉は「そばにいてくれるだけでいい」とか「あなた以外に他に何もいらない」という意味に置き換えることができます。

決して、ベッドで寝たきりで、話すこともできず、目も開けることもなく、意識もない状態でも生きていればいいということではありませんよね。

多くの人は、生きているということは一緒に思い出をつくることができるという状態と考えているのではないでしょうか?

今回は、人はいつ死ぬのか、いつ死んだと捉えるのかについて考えてみました。

目次

医学的な「死」とは?

医師もしくは歯科医師のみが死亡確認ができるとされています。病院で亡くなるときも自宅で亡くなるときも必ず医師に死亡確認をしてもらう必要があります。

死亡確認の手順は、

  • 睫毛反射・対光反射(直接反射、間接反射)の消失をペンライトを用いて確認。
  • 聴診で心音・呼吸音がないことを確認。
  • 橈骨動脈・頸動脈を触れないことを確認。
  • 心電図モニターでflatであることを確認。

とされています。

つまり医学的な死というのは、「生命活動の停止」を意味します。

私が捉える「死」とは?

たとえば、医者から「余命1年です」と言われた場合、なんらかのコミュニケーションができる状態が1年あると考えるでしょう。仮に一週間意識があっただけで残りの1年は全く意識のない状態で人工呼吸器につながれて生きていたとしたら、医者の言葉を素直に受け止めることはできません。

また脳死状態の患者に対して、「将来的に意識が回復すること」を願うのは一般的なことです。そして意識が回復したあとには、話をしたいことがいっぱいあるハズです。

私は生きているということは、一緒に楽しさ、悲しさ、辛さ、嬉しさを共有したり、思い出をつくることだと考えています。

延命治療を行わない「尊厳死」という選択もあります。患者の状態によっては、そのジャッジを家族がすることもあります。

海外では「安楽死」を選択できる国もあります。医療の発達で「生」と「死」の境界があいまいになり、今まででは亡くなるはずの患者も医学的には生きることができるようになっています。

その時に何をもって「死」とするのか、そして「死」を選ぶ基準は何であるのかを決めるのは、個人や家族に委ねられる時代になってきているのです。近い将来、日本でも「安楽死」が認められるかもしれません。

こうして考えてみると、意識がない状態というのは「死」に近い状態であると捉えているといえます。

私自身、何らかの反応があるということが生きている証であると考えています。そして、大切な人であれば、相手の目に自分が映り、自分という人間を認識してもらうということも非常に重要な要素です。自分の中の思い出だけでなく、相手の思い出の中にも自分の存在を残したい、こう考えるのは普通のことではないでしょうか?

生きている間にというのは、いつのこと?

生きている間に思い出をつくりたいというのは、相手と自分の思い出を共有できることが前提にあるでしょう。

亡くなったあとは、思い出をつくることができなくなります。思い出の中にしか故人はいません。思い出がいっぱいあれば、故人の姿をたくさん見ることができます。

いま家族や友人の顔を思い浮かべてください。その家族や友人の表情は笑顔ではないですか?人は笑顔の表情が一番記憶に残りやすいそうです。

生きている間に、たくさんの笑顔の思い出が残せるようにしたいですね。

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