モラハラは、非常に悪質な行為であることをこのサイトでも何度でも記事にしてきました。
そしてまた、モラハラ被害者が加害者に対して怒りや憎しみを感じにくいことも説明をしてきました。
でも本当は、モラハラ被害者の人こそ、モラハラ加害者へ怒っていいと思っています。
目次
日大タックル事件を振り返って 私たちが怒りを感じるとき
日大タックル事件が連日のようにニュースを騒がせたことは、いまだ記憶に新しいですね。
悪質タックルを指示した監督やコーチの謝罪会見は会見中から大きな批判を呼び、炎上するに至りました。
一方で加害者の学生は、学生と言う立場でありながら顔を出しての謝罪会見を行い、質問に対して誠実に受け答えをし、終始一貫して謝罪の姿勢を貫いたことで、世論を大きく味方につけました。
どちらも実行したものと命令したものの違いはあれど、加害者としての立場であるにもかかわらず、なぜこんなにも世間の反応に大きな差が生まれたのでしょうか?
私たちが怒りを感じるのは「罪」ではなく「悪」である
悪質タックル事件が起こってしまったことで、加害者側の「罪」というものは無くなることはありません。
しかし、私たち世論が、加害者である学生に対して怒りを感じなかったのは、彼がタックルの罪を認め、謝罪し、またそれに至るまでの経緯を誠心誠意説明したことで、彼が「悪」ではないと世間の目には映ったからです。
一方で、監督やコーチの学生に責任転嫁をし、自らの行為の責任を取ろうとしなかった対応や、嘘をつき続け、何の意味もない謝罪を続けたことに世間は強い怒りを感じました。
このように、強い怒りを感じるのは、「罪」に対してではありません。
私たちは多くの場合、「悪」を許せず、「悪」に対して強い怒りを感じます。
「悪」の方が「罪」より許せない理由
私たちが「罪」ではなく「悪」を許せないと思うのには理由があります。
「罪」は、罪を犯した本人が反省し、何が間違っていたのかを理解をしてくれれば、次に同じことを繰り返すことは無くなります。犯した「罪」は無くならないけれど、未来の「罪」は無くなります。
一方で、「悪」は反省をせず、根本的に何が悪かったのかを理解しておらず、そのため、この先も「罪」が続く可能性が非常に高いのです。
人間はミスもします。失敗もします。時には罪を犯してしまうこともあるでしょう。
しかし、それはだれしも同じであり、ある程度の範囲内であれば互いに許しあい、許容できるものでもあります。
「悪」を嫌う根底には、未来永劫にわたって続く「罪」があります。範囲を超えて繰り返される「罪」は、許容できなくなるのです。
モラハラが許せない理由
モラハラの場合も同じです。
一つ一つの行動の原因は、「悪意」があります。
例えば嘘をつくこと1つとっても、誰かの不利益のために嘘をつくケースが多く、非常に悪質です。
それ以外にも、誰かをバカにしたり、誰かを貶めるための行動を日常的にとり続けます。
そして何よりもこれらの行いを指摘したところで本人が真に反省をし、改善をする気が全くありません。
改善されることなく未来に渡ってモラハラ被害が広がり続ける、それが何よりもモラハラの「悪」であると私は思っています。
モラハラ加害者との関係は、許容しようと努力し続けて、相手のことを信用しようとし続けて、それでも裏切られ、必ず何らかの形で破綻する最期を迎えます。
モラハラ加害者と近い存在であればあるほど、繰り返されるモラハラ行為に許容できる範囲がなくなって破綻するのです。
私の体験談
モラハラ配偶者と付き合っていくということは、未来にかけてこのモラハラを許容する覚悟があるかどうかです。今あるモラハラだけでなく、今後も一生この状態が続くことを想定したうえで、相手との付き合い方を考えなければなりません。
他の人に理解されなくても、モラハラは怒ってもいい出来事
モラハラは親兄弟や友人に相談してもなかなか理解されず、孤独を感じることがあります。
そして、もしかしてこんなことで怒ったり悩んだりする自分がおかしいのだろうか?と思ってしまうこともあるでしょう。
いいえ、あなたの怒りは正常です。
日大タックル事件で多くの人が怒りを感じたのがその証拠です。
逆にモラハラに対して怒りを感じなくなったときは、非常に危ない状態ですので注意が必要です。
怒りの感情を閉じ込めてはいけない
モラハラ被害者は加害者への怒りを我慢しているケースが多く見られます。
モラハラ行為は、どれをとっても怒っていいものです。
抑え込み続けて本当の自分の感情が分からなくなる前に、モラハラ被害から抜け出しましょう。