結婚生活は今や過去のこと。ただの思い出になっています。
離婚を友人に報告した際、離婚原因やいきさつなどもあわせて話をしたのですが、友人から「それでも結婚生活が5年続いたということは、良いときもあったんだろうね」と言われました。
はて?結婚生活で良いときはあったのだろうか?
そのとき私の中では、結婚生活でよかったという思い出がほとんど残っていないことに気づきました。
もちろん友人が言うように悪いことばっかりであったはずはないと思いますが(DVであってもハネムーン期という暴力がない時期があります。)それは私の中の思い出からはスッポリとなくなっていたのです。
人間はすべての過去を思い出として残すことはできません。記憶に焼き付けてある思い出というのは、過去の出来事の中でも特に印象深いものであるわけです。
過去がどのように記憶されるのか、思い出はなぜ美化されるのかをまとめました。
離婚調停中に相手からの嫌がらせなどで、悪い思い出ばかりを思い出していた
私の場合、裁判にまでは発展しませんでしたが調停でもお互いの憎しみが強くなる泥沼離婚でした。
そして夫側は、母親である私が虐待をしていたとの嘘の主張をしたり、子ども手当を受給できなくさせたり、私や子どもの荷物を勝手に処分するといった嫌がらせをしてきました。
夫からの主張に反論するために、何度も夫が出した主張文を読まなくてはなりませんでした。嘘の主張文を読むたびに、夫への嫌悪感や怒りを感じていました。そして「夫はこういう人だったんだ」ということが分かり目が覚めるとともに、とてもガッカリしたことを覚えています。それまでは離婚すると決めたものの、やはり心のどこかでは夫を信じたい気持ちもあったのだと思います。しかし、夫が自ら作成した嘘の文章をみて、ようやく夫の本性を真に理解することができました。
すると今まであった結婚生活中の不条理な出来事も「実は、こういうことだったんじゃないか」とつじつまが合うようになってきたのです。
夫は「お前がおかしいから俺が正してやっている」と言っていたけれど、本当は自分のストレスをぶつけていただけだったんじゃないだろうか…。夫が私が体調が悪いといつも看病してくれず出掛けたり、時には「俺の方が体調が悪い」と言い出していたのは、特に急な用事があったり、本当に具合が悪いのではなくただのモラハラだったのではないだろうか…。
こうやって自分がされたモラハラ被害を思い出しては「あぁ、そうだったのか。夫が言っていた意味ややっていた意味がようやくわかった。」とモラハラ行為を消化していきました。
当然ですが、私はモラハラ被害のことばかりを思い出して、結婚生活中に良かったであろう出来事は思い出さなかったのです。
人は、何度も繰り返し思い出した記憶の方が強く定着していきます。この繰り返しによって、モラハラの記憶ばかりが定着し、良い思い出はどんどんと風化していくことになったのでしょう。
反対に、いいできごとばかりを思い出していると結婚生活を美化しやすい?
こうして私の中には結婚生活中にあった嫌な出来事が思い出の中心になっていきました。いわば、思い出の美化の反対、思い出の醜化でした。
もし夫からの嘘の主張文が提出されなければ、夫のことを信じたい気持ちから、結婚生活中のいい思い出を振り返ることも増えて、私の結婚生活は良いものであったという逆のイメージを持っていた可能性もあるのです。
過去のできごとというのはこのように極端な記憶のされ方をすることがあります。「思い出は美化されやすい」とも言うように、すべてのできごとがバランスよく記憶に残るわけではありません。良い記憶、悪い記憶ばかりがあるからと言って必ずしも、「すべて良かった」「すべて悪かった」わけではないのだと思います。
思い出に執着しすぎると、今の幸せを見過ごすことになる
思い出は美化しすぎてしまっていてもかえって苦しい思いをすることがあります。「結婚生活中の方が良かった」とか「離婚しなければよかった」と過去のことを悔やみクヨクヨとしてしまいます。特に失ったものや手に入らなかったものに人は執着しやすく、実際の価値以上のものとして誤って記憶していることもあります。
悪い思い出ばかりであれば、
「もしかしたらいいこともあったかもしれないな」
良い思い出ばかりであれば、
「そうは言いつつも悪いこともあったな」
と違う側面にも目を向けてみてください。
極端に記憶された思い出は、自分の中で再度バランスをとることが求められます。
思い出は、しょせんは思い出です。
美化された思い出に執着して、今の幸せを壊さないようにしなくてはなりません。
まとめ
- 過去は正しくバランスよく記憶されているとは限らない
- 思い出は、良すぎても悪すぎても自分を苦しめることがある
- 思い出をそのまま受け取るのではなく、自分の中で再度バランスをとることが必要
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