しつけと虐待は明確に違う!

しつけと虐待は明確に違う!

多くの虐待親が「虐待だとは思っていない。しつけの範囲だった」として、自分のやっていたことを正当化する傾向にあります。

しかし、しつけと虐待は根本的に違うものであり、明確にその違いを区別できるものです。

目次

しつけと虐待は何が違うのか?

しつけは、子どもに何かを学ばせる目的で行われます。子どもが「これは悪いこと」「これはやってはいけないこと」というのを学習させるために行います。

一方、虐待は学ばせるのではなく子どもを服従させるために行われます。子どもが親に逆らうことがないように暴力やその他の力を使い従わせます。

しつけは「言うことをきかせる」という表現に置き換えられることがあります。

本当にしつけをする親は、「言うことをきかせる」を「親の言うことを理解させる」だと解釈しています。

一方虐待親は、「自分の言うことに逆らわなくさせる、従わせる」ことだと思っています。

虐待をしつけだと思う親に足りないものは?

虐待親は、子どもを一人の人間として尊重する気持ちが圧倒的に欠けています。子どものことを自分の一部や自分の所有物のように思っており、自分の意のままに操ることが当然だという考えを持っています。

そのため、「親の言うことに逆らう子どもは悪い子であり、暴力を使ってでも従わせてもいい」と勘違いしているのです。

また中には、「悪いことをする子どもは自分を脅かす加害者であり、自分は子どもから攻撃されている被害者である」と思っているケースもあります。こういった場合は、被害者である自分を守るために(正当化)暴力をふるい続けてしまい、よりひどい虐待につながる可能性があります。

子どもを所有物と考える背景には子どもへの強い執着と依存

子どもの人生を自分の人生だと思い、高い教育を施してインテリの道を歩ませようとする親もいます。また、家庭の頂点に君臨し家族を支配しようとする親もいます。

こうした親に見られる特徴は、子どもや家族への強い執着と依存です。

自分のやりたいことをやり、自分の中から満たされ、自分の人生を謳歌できるタイプの人は、子どもに依存する必要がありません。

しかし、自分の中はからっぽで、誰かに求められなければ満たされないと思っている人は、依存相手に満たしてもらおうとしたり、人からの評価によって自分の人生の価値を決めようとします。

子どもがその相手に選ばれる大きな理由は、子どもは一人で生きて行くことができないため、絶対に自分から逃げて行かない存在だからです。他人に同じことをすれば寄りかかれることが負担になり、離れていきます。

一度依存先を手に入れることに成功した親は、依存先である子どもを逃がさないようにします。逃げられないように親は力を使って子どもを「服従」させます。

そこにあるのは、「執着」と「依存」であり、「愛情」ではありません。

子育て以外にも生きがいを持つことが重要

親自身が社会のあらゆる場所に自分の居場所があり、あらゆる人とのつながりがある場合は、依存する先(心のよりどころとする先)がたくさんある状態です。こういった場合は、家族という単位はありつつも一人の人間として自立しています。

しかし、社会に排除され、社会の中に自分の居場所がないと感じている人にとっては、すがったり頼ったりできる場所が家庭内のみになってしまいます。家庭や家族に見捨てられてしまえば、自分は孤立してしまうという恐怖から、家族に依存し、また家族をコントロールして自分を見捨てないようにさせようとするのです。

自分の興味や熱意のベクトルがいろんなところに分散されていればそれぞれにちょっとずつ依存することができ、バランスが良いと言えます。

しかし、依存先が1つしかない場合はそこにすべての熱量がドーンとかかってしまい、その依存先の負担が大きくなるわけです。

虐待親の社会とのかかわり方は1つの指標になるのでは?

虐待をする親が、社会とどのように関わって生きているかは子どもと親を引き離すべきか否かを見分ける一つの指標になると考えられます。親が社会から孤立している場合、子どもや家庭に執着、依存した加害者からの虐待が加速する恐れがあります。

虐待死で報道される親が「無職」が多いのは、「貧困」だけではなく「社会とのかかわりの根絶」も理由の一つとしてあげれるでしょう。また、「転居を繰り返す」「引っ越してきたばかり」「周りに友人、知人がいない」といったことも気を付けてみなくてはいけません。

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