DV・モラハラなどの家族問題に対して、カウンセリングやシェルター・グループワーク等の支援を行っている支援者が共同で執筆した「DVはなおる」。この本の著者のひとり「中村カズノリ」さんが、自身の執筆した文章の一部をnoteにて無料公開しています。
中村さんは、DV・モラハラの被害者・加害者の両方を経験し、なおかつDV加害者更生プログラムに参加し、脱暴力に成功されたおひとりです。
この文章を読むと、
DV・モラハラ加害者になる原因は何だったのか
DV・モラハラ加害者の親はどういう人なのか
DV・モラハラを治すのには、どういった働きかけが適切なのか
がみえてきます。
面前DVや人格否定のモラハラも「普通」だった家庭環境
生い立ちにまつわる文章が【DVは なおる 続 無料公開分】①原家族体験(1)で公開されていますが、そこには壮絶な体験が語られています。
中村さんの体験の中に「面前DV」の話が出てきますが、面前DVを見たときに幼い子どもがどう感じるのかがここからうかがい知ることができます。
「なんだかわからないし怖いけど、きっと『どこにでもある、なんでもないようなこと』なのだ」
覚えている面前DVの記憶のとき、中村さんは、わずか2、3歳であったそうです。それでも、この「面前DV」の記憶はハッキリと「怖いもの」だと残っていたようです。周りが、幼いころのことは忘れているだろうと思っていたとしても、こうしてハッキリとDVの記憶が残っていることが分かります。
今でさえ「面前DV」は虐待の一種だと言われていますが、それでもなお、子どもへの直接的な暴力がなければ、DV親と子どもが会うことが正しいとされるような法制度です。
子どもは「面前DV」を見ても、それが「間違っている」「してはダメなこと」だと分かりません。
怖いと思っていても、「どこにでもある、なんでもないようなこと」だという間違った価値観を植え付けられてしまうのです。
幼い時のDV・モラハラの記憶は、大きくなってからもなお残り続けて悪影響を与える可能性があるわけです。
DV・モラハラが「日常」な環境で育つとどうなる?
直接的な暴力はともかく、このような暴言や威圧、人格や価値観の否定などは日常茶飯事でした。今でこそおかしいと思えますが、当時はなんでもない「普通」のことだったのです。
中村さんは、DV・モラハラ家庭で育ったことによって、「DV」や「モラハラ」が日常的にある「普通」のことだったと述べています。
「DV」や「モラハラ」に遭ったことがない人にとっては、「DV」や「モラハラ」は起こることも想定できないような非日常的なことでしょう。結婚して元夫からモラハラを受けていた私でさえ、夫のモラハラを「天災」のようだったと感じていました。いつ起こるか分からないような「非日常」だったのです。
しかし、それが毎日「当たり前」にある環境では、「DV」や「モラハラ」も日常の一部だということが分かります。
被害に遭ったことがない人、私のように大人になって被害に遭った人とは明らかに「DV」や「モラハラ」の認識が違うことは間違いありません。
元夫にいくら訴えても「俺は正しい!」と言う価値観を曲げなかったのも、「モラハラ」が普通のこと(むしろ、正しいこと)だという価値観が幼いころからの生活で根付いていたためだと考えられます。
だからこそ、「モラハラが普通ではない」ということに自ら気づき、変えようとしなければ、「普通」であるモラハラを治そうとするはずがないのです。自覚のないモラハラが改善されない理由がわかるかと思います。
道を外れようとすると始まる「コントロール」
【DVは なおる 続 無料公開分】②原家族体験(2)では、次のような文章が出てきます。
また先述した通り、自分の価値観や感情は否定され、勉強してそれなりの成績を保っているだとか、家で両親に経済的に守られているだとか、そういう形式のみを大事にされている感じをずっと受けていましたし、そこから少しでも外れようとすると、たちまち酷い言葉でのコントロールが始まりました。
親に従っていさえすれば(親の思い通りの自分でありさえすれば)、生きることはできたのでしょう。しかし、親の意図から外れようとすると、何が何でも親の敷いたレールに連れ戻されたことが分かります。
元夫と義両親の関係を見ていると、まさにこのような状態でした。(義両親の場合は、正しい道を歩いているとやたらと褒められるというオプション付きでしたが)
元夫は、人格否定などのひどい言葉を避けるために、「レールから外れないように生きている」人でした。親にとっては、「ものすごくいい子」だったのです。
元夫の場合は、今もなお義両親に従う「いい子」ですが、中村さんの場合は、被害者の逆襲でも分かるように、次第に反撃を開始するようになります。
おそらく、この「反撃」があったからこそ、自ら治そうと行動し、いまは脱暴力に成功したのではないかと思います。
DV・モラハラ環境から抜け出せても、影響は続く
原家族で日常的にあったDV等のしんどい状況は、成人して家を出るまで続いたのですが、その影響そのものは成人後もずっと続いていくことになりました。
暴力や暴言を用いたパワーコントロールを受け続けたことで、自分自身もパワーコントロールの方法を覚え、他の心地良いコミュニケーション方法についてはほとんど学ぶこと・体験することがなかったからです。
中村さんの文章からも分かるように、DV・モラハラ環境では、言葉で話し合う、相手の話を聞いて共感するといったコミュニケーション方法を親から学ぶことなく育ちます。
そのため、親から独立した後もなお、周囲の人とのコミュニケーションがうまくいかずに人間関係が破綻することが往々にしてあります。
私の友人が、進学を機に実家を出て、モラハラ環境から離れた後にやったことは、コミュニケーション方法を学ぶことでした。
モラハラを治すときに、この過程は必ず必要です。
また、モラハラ被害者の人も精神的に病んでしまい、モラハラ加害者から離れたとしても、人間不信に陥ったり、周囲に当たり散らしてしまい、人間関係がうまくいかなくなる時期があることを知っておかなくてはいけません。
◆関連記事◆
DV・モラハラ更生プログラムの良し悪し
【DVは なおる 続 無料公開分】④さらに傷つきを深めた「DV加害者プログラム」の中で、ファシリテーター(更生プログラムの進行役)から受けたエピソードについても公開されています。
DV・モラハラを治したいと考えている人でも、どういった機関を利用すればいいのかはよく考えなくてはいけません。必ずしも、優れた更生プログラムを受けられるとは限りません。
のちに、中村さんは「日本家族再生センター」のグループワークに参加されていらっしゃいます。
またこのエピソードの中で、中村さんがファシリテーターと「怒りを抑えて話をする」ことができているところも注目すべき点です。(文章が上手く、中村さんの悔しい思いに感情移入せずにはいられません!)
加害者側の視点が分かるのは被害者にとってもメリットがある
【DVは なおる 続 無料公開分】⑥その後…脱暴力への道では、どんなグループワークがためになったのか、どういったやり取りが心に響いたかなどがまとめられています。
DV・モラハラの加害者側の心理は、被害者の人にとっても新しい発見があると思います。
もちろん、すべての人が脱暴力、脱モラハラができるわけではありません。
しかし、新しい視点から見ると、彼らが抱えている問題がなんであるのか、何を求めているのかがよく分かると思います。
なかには、「やりたくない」「やめたい」と思いながらも繰り返しDV・モラハラをしてしまう人もいます。そういった人たちにどんな援助が必要なのか、この文章からも見えてくるのではないでしょうか。
また、脱暴力への道では、DV・モラハラの本質を捉える言葉も出てきます。
「身体に染み付いているので、それを変えるのは容易ではない」
「心の動きの癖というものに自分で気付いていくというのが何より難しいし、大事なことでもある」
これらの文章は、加害者だけではなく被害者も、DVやモラハラのときにどういう心の動きをするのかを知るために覚えておくべきポイントではないでしょうか。
コフートの提唱する「共感」がプラスに働く当事者同士のグループワーク
「日本家族再生センター」でのグループワークに参加された感想を次のように述べています。
当事者同士で思いを共有することで自分自身を無理なく変えていく、本当に大事で貴重な場であったと言えます。
【自己心理学】自覚のないモラハラ加害者を治療する3つの過程!でも紹介しましたが、コフートは「共感」が欠けている自己を回復させることにつながると提唱し、自己を回復させることでモラハラを収まると考えられます。
このグループワークでは、「無理なく変えていく」ことができたというところが大きなポイントです。
「DV」や「モラハラ」は、「抑え込もう」とすれば、いずれ我慢の限界が来た時に爆発してしまいます。
グループワークの内容自体も、加害行為を責められるようなものではなく、主に「自分の思いや感情、価値観について」を語るワークが中心でした。
これまでに、自分の感情や価値観を受け入れてこなかった自分にとって、それは凄く心地よく、安心できる場でした。
感情や価値観を押さえつけられてきた過去の経験から自分を取り戻すために必要なのは、まさに「自分の思いや感情、価値観」を引き出し、自ら気づかなかった自分を発見することではないでしょうか。
最後に…
この文章の中で出てきた言葉で目に留まったものがあります。それはご両親のことを表現するときに使っていた「DVの顔」と言う言葉です。
私たちは、さまざまなキャラクター(顔)を使い分けていますが、DVやモラハラをする人たちの中には、このキャラクターの中に「DVの顔」「モラハラの顔」があるのです。
よく被害者の方が、「DVさえしなければいい人」「モラハラさえしなければいい人」と言うのは、まさに当たっていて、この「DVの顔」「モラハラの顔」がなければいたって普通の人なのです。(むしろ普通の人よりもいい人の場合すらあります。)
しかし、この「DVの顔」「モラハラの顔」があるからこそ、共に人生を歩んでいけない場合もあります。
出来れば、多くのDV・モラハラ当事者たちが、「DVの顔」「モラハラの顔」を自覚し、改善していけることを望んでいます。
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